人は成長することが大好きだ。これは原始人的に備わった性質でもある。成長すれば、より環境に適応して、生きていけるからだ。だから、私たちには学習意欲があり、向上心があり、そして自分のDNAを受け継ぐ子孫たちにも成長することを望む。
ところが一般的にあることを習得するまでにはかなりの時間と労力が必要だ。1万時間セオリーというものもある。人に抜きんでた技術を習得するためには1万時間ぐらいの反復練習が必要になるというルールだ。だから、通常、成長のための練習は苦痛との戦いにもなる。
ここにまた原始人的性質が立ちはだかる。苦しいことを人はやりたがらないのだ。練習が、喜びよりも我慢の苦痛の方が大きくなっている場合、人はそれをやり続けられない。だから、成長もない。
自分もしくは周囲の人の成長を考えるならば、それは楽しい練習になってるかどうかが一番重要なポイントになる。
「そんなことはない。私は、苦しくても勉強を躾られて、そして、勉強癖がついたから、良い大人になれた」という人もいるかもしれない。それはたまたま苦痛より勉強による優越感や達成感、親の注目などというプラスの方が総合的に大きかったから続いただけで、嫌々やらされている苦行をそのプレッシャーがなくなってからも続けるような人は少ない。
要はある練習をやってみて、たまたま好き(面白い、成長を感じる、仲間を感じる、楽な時間…)ならばその能力が鍛えられるし、そうでもない場合はさっさと諦めて他のテーマに移った方が、その人の人生を有効に使える場合が多い。みんながやるから…という弱い動機では、この継続の苦痛を乗り切りにくい。
また、自分や子供の学習が続かないことで悩む時、罰や理屈で意欲を刺激しようとしても限界がある。ネガティブな動機によって、確かにある程度のスキルは身につけることができるかもしれないが、一流にはなりにくい。一流を目指すには、ある程度の才能をベースに、とにかく楽しい練習(総合的に快)になってるかどうか、がポイントになってくる。
どうしても何かをやらせたいという時にも、無理矢理にでもやらせるよりは、少し放っておいた方がまだ「嫌いにならない可能性」を留保できる分、その分野でその人が伸びるチャンスの芽を残しておける。
もし自分がスランプなら、嫌々続けるより、少し休んだ方がスランプを乗り越えやすく、その後の継続にもつながりやすいだろう。